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自序

頃日来訪の友人某、雑談の末に曰く、「御懇意の吉野作造先生は、法学博士としての識見高く、頭喘亦明晰であるに、時々唯物主義に偏した放論をされるのは、誠に惜むべき事です云々、お序での折にアナタから御忠告を願ひたいものです」、とのことなりし、其後同先輩たる法学博士中田薫先生に向ひて予は「先日来客の一人より吉野博士に云々の忠告をして呉れと頼まれたので、大いに言って見やうと思ひますが、御高見は如何ですか」と問ひしに対し、中田先生答へて曰く「それはヨシたがいゝでせう、云ったとて無駄ですよ、あの人はアレで名を揚げて居る人です、恰度キミが猥褻研究で名を売つて居るのと同じですから、今更忠告したとて止めるものですか、仮りに言へば、私がキミに対して猥褻研究を止めろと大に忠告したとて、キミは止めないてせう、ハハハ」と其時、中田先生より、猥褻研究非難の論拠如何な聴取せざりしは遺憾とする所なるが、仮設問題なりし故に、果して論拠ある言か否かは知らずとするも、世間の人々が猥褻研究を卑陋なりとする傾向を有することは予も認むる所なり

然れども、予には予の信念ありて、敢で猥褻研究に従事せるなり、古淫書の刊行は、為政者若しくは道学者の圧迫に対する反杭なりと説く者あり、自ら逃避的事業と称する予にも畿分其反抗心なきにあらず、又仮りに猥褻其事物を卑陋なりとするも、学者として卑陋事物の研究を為すに何の不可かあらん、世には糞尿研究の学者すらあり、況や卑陋なりとする習慣打破の信念あるに於てをや、其虚偽を排し其迷想を斥けんとの抱負を有する者、「木からでも生れたやうに教育家」といへる新柳句もあるにあらずや

論じてこゝに至り、曩に友人某の頼みに応じて、吉野先生に忠告せんとせし事の軽挙たりしは、中田先生の意見を徴すまでもなき誤想たりしを悟れり、記して以て自序となす

天来五十八年の十二月吉日廃姓外骨