宗教
世界万国とも宗教の起原は男女の生殖器崇拝にありしが如し、仮りに然らずとするも、猥褻の淫神淫仏、猥褻の行事習俗ありし事は、古今内外の図書にも明記する所なり
先づ我国の神道に就て云はん、往年宮崎八百吉子「古事記の新観察」に於て「古事記を開いて最も驚嘆すべきは、其生殖創造観である、其生殖器崇拝の事実である、其生殖神聖観である、宇宙の創造を説くに、分化生殖の思想を以てして居ること、生殖器崇拝の根源は古事記にあること、生殖を神聖視して非礼を容れざること」等を説述せり
「みとのまくはひ」、「成り成りて成り余れる所」、「成り成りて成り足らざる所」、「ほたり、くぼ」…………男根女根、生殖器と名は変れども其実は同じきにあらずや
明治十八年四月版権免許の公刊本、上州の和学者新居守村の著「気象考」に
「古書どもに、天津麻羅命、大麻羅命、天津赤麻羅命など、神の名に負せたるは、男女の陰具はくしともくしき宝なればなり、平田翁(篤胤)のいへらく、此頃大自在天の神宝(みたましろ)の天根など、彼の御戈(みまこ)の古伝を思ひ合せて、神名の麻良、また陰具を麻羅といふも、元より古言にて梵語に自在天を麻羅といふも……同語なる事を解り得たりといへり」云々、同書七丁裏にあり
此「気象考」の要旨は、天地の気を説き、気凝りて神と成る神は気の凝なり、男の睾丸は「気の玉」なり、精液を「キ」と云ふも気なりと論じて、人々は我身を神と尊むべし、我は陰具を「そのさまはえも云ひ難きすがたにて、やすくも人をつくる神かな」と詠めりなど紀し、其引例に所謂猥褻の事を多々挙げて奇焔を吐けるものなり、其論の是非は兎も角、熱心なるマジメの学者たること察せらる
男根を神と見しことは、世界共通の未開思想なり、我国にても上古人は道路の分岐点、即ち股間に似たる所に、石或は木にて造れる男根を祭り、それをクナドの神と称して尊崇し、男根自体をも常に股間の神と信とて自重せしなり
摂州尼ヶ崎の古名を「大物の浦」と称せしは、巨大の生殖器神を祭れる浦の義なりと云ふ事と、前記「気象考」に挙げたる神の名とを対照して考ふれば、神の名の「○○○命」といへるは其形状を尊崇しての御名なりしならんか 山崎闇斉は神道に四化(造化、気化、身化、心化)ありとして「身化ノ神ハ乃チ男女搆レ精、以テ胎化スル者」といへり 平田篤胤の著「宮地神(みやびのかみ)御伝記」一冊は、天宇受売あめのうず)売(の)命の伝記なるが、「宮比」とは風雅の義、命が天岩戸の前にて陰部を露出して舞ひ踊りたまひしに由るとぞ、同書に曰く
「無住法師が砂石集といふ物に、和泉式部が貴布神社に祈りごとしける事を云ヘる所に、年長(としたけ)たる神巫(みこ)、赤幤たて並べたる周りを、様々に作法して鼓を打ち、前をかき上げてたゝき、三返めぐりて、此体にせさせ給ヘといふに、和泉式部面うち赤めて
千早振神の見る目も恥かしや身を思ふとて身をや拾りべき、と詠みたる事あり、今の世(文政)に縫物すとて、針を失ひたる時に、その女ひそかに、信仰の神を念じて前の毛を三返かき上げ、三返たゝけば、失せたる針かならず出るを、出たる時に、前の毛を三返かき下るすと云ふまじなひも、此わざの残れるなり」
生殖器崇拝の実例は既に旧著「猥褻風俗史」に列記せり、こゝには其漏れたる二三の異例を略記或は抄録す
文政七年小笠原長保の「甲申旅日記」伊豆天城山麓の記事中「疱瘡の神」と唱ふる祠ありて、其神体は高さ一丈八尺許の男根石なりとの事を記せり
越後国古志郡高波荘のほだれ宮の祭礼には、藁にて造りし男女の陰具を掲げて囃す習俗ありと「温古の栞」に見ゆ
「現に武州多摩郡千駄ヶ谷村の陰門榎は、板橋の縁切榎と共に東京に於ける著名なる榎の両大関である、此榎に祈願をかけると、必ず良児を得るといふので、維新前より尚今日に至るまで線香の煙が絶えぬ、今では古里(ふるさと)大明神といふ絵馬や幟を数個あげてある、樹形が生殖器に酷似して居るから陰門榎と呼ばれてゐるのである」と明治四十一年発行の「吉凶百談」に見ゆ
「セミチツク民族は男根の石像或は木像をべスヱル(神の宮)と呼て崇拝し、又男根に似たる毬果ある松柏類を表象せるより、三角塔の形を女神の表号とせり」と「キリスト抹殺論」に見ゆ
越中鵜坂神社の尻打祭と近江筑摩神社の鍋冠祭、山城宇治の縣祭等も性交と神事との関係なり、毛長大明神と呼ばるゝ伊豆の箱根権現、信濃の戸隠神社等の「七難がそゝ毛」、越後五智のカリタ大明神、此外各地の金持大明神、お客大明神等は枚挙に遑なし
生殖偶像崇拝の盛んに行はれし印度の産物たる仏教にも実例少しとせず、法喜禅悦は性変に同じ快味を覚ゆる事を唱ヘ、真言宗のインを結ぶとて、左手の掌に右手の人差指を突入せしむる事は、男女の性交を意味し、舍那仏が両手にて菱形を作れるは女陰の表象なり、大聖観喜天に二股太根を供ふるは、女陰を供ふるの義なり
仏典の戒律に邪淫戒あること、僧侶に性欲の失せざる証徴ならずや、其性欲抑制のために断根和尚の出でたること少しとせず、又其断根ならずして姑息手段を施すもありたり
大阪難波鐵眼寺の開祖鐵眼和尚は、一夜駈込みの美人を宿泊せしめしが、頓に煩悩起りて止まざりしがため、陰根に灸をすヘて抑止せしとの事「摂陽落穂集」に見ゆ
淫汁の曼陀羅、稲荷山の土淫等、是亦挙示の煩に堪ヘず
基督教にていふ割礼とは、幼童の陰茎の包皮を切開して神を拝む儀式なり、キリストのかけられし十字架といふは生殖器の表象なりと説く者あり、又信徒の標的とするキリストの十宇架にかけられし図を見るに、キリストの陰部を露出せる図もあり
塵長の頃、羅馬法皇の命にて日本に来りし基督教宜教師、西班牙人コリヤ、ドが、帰国の後「日本語稽古の読本」といふをポルトガル式の綴方にて著はし西暦一千六百三十二年(我寛永九年)に発行せしものあり、其中に「懺悔録」といヘる記録あり、察するに、日本人が吉利支丹信者に成りて、バテレンに自己の罪状を白状したる亊の記録ならんが、それを日本語のまゝ横文に綴りし珍書なり、此珍書全文を吉野作造先生が日本文に改められしを見るに、二十数条の中過半は性交状態を露骨に告白せるものなり、其中につき、必衰するに憚なき程度の一節を挙ぐ
(此文中「まうした」とあるべきを「まらした」と記せるは、当時の肥前長崎に近き天草辺の方言なりとの考証あると聞けり)
「私か童(わらんべ 嬰の義)で二親を喪ふて、孤児(みなしご)になりまらしたさうあつたれば、世を過ぐる様がござらいで、南蛮人より、その伽(とぎ)に取られて、主の宿に四月の間、女房の様に居りまらした、それから人に奉公することが六つかしいと聞いたれば、本性がなうて面目恥辱等をも知らいで、其侭傾城になりて、女郎町に罷り往て、我身をば好む者に売り物として、この三ヶ年の間に居りまらした、この中に、奇麗さのためと、又わづらひに遇はぬために、仕果された男を去なするたんてき、小便してか、屹度うちまで拭ひさらいてか、兎角腹中に男のことが何も留まらぬ様に致しまらした」
基督教伝道史の一資料たるべき古珍書なれども、其全文を 通読すれば、日本の春書好色本にもなき極めて露骨の告白多きものたり
以上の外は、文学博士谷本梨庵先生の著「現代宗教と性欲」を見て、宗教に淫猥関係のこと多きを知らるべし