文学
「文学」といへる範囲は広し、漢文学、同文学(和文)、韻文学に関する所説は別項に於て記し、こゝには単に小説と戯曲の二種に就て略記せん
明治大正以前の古文学に就ては、再び同一事を記述するの煩を避け、予が大正四年四月、大阪文芸同攻会の講演会にて説きし講演筆記の一節を「面白半分」に拠りて左に抜録す
○ 文学の起原
Section titled “○ 文学の起原”文学の起原も亦猥褻にあり、歴史は「みとのまぐばひ」、「交接教鳥」に初まり、「古事記」「日本書記」の所載は今日訳して公表し難き所多々あるにあらずや、和歌は素盞鳴尊の「八雲たつ出雲八重垣妻ごめに」を濫觴として恋歌を和歌の生命とせり、「万葉集」所載の恋歌を今日の俗語に訳すれば、其淫靡聞くに堪へざるものあり、国文亦然り、小説の祖たる「竹取物語」は娘一人に婿八人の醜態を描けるもの、古草子「伊勢物語」は「昔男ありけり」の助倍談、「源氏物語」は好色の媒書なりと古人既に評せり、随筆本たる「徒然草」は「色好まざらん男は玉の巵底なきが如し」と云へる艶法師の作なり、此外「風葉集」に引ける古物語百本数十種は、只そ の外題のみを見るも春書目録に均しきものならずや
- われ恥かしき物語
- ちゞに砕くる物語
- ゆるさぬなか物語
- 忍ぶもぢずり物語
- 妻恋かぬる物語
- 夢の通ひ路物語
- 二世の友物語
斯くの如く、政治、宗教、文学、美術、等の起源は猥褻にありとすれば、其軟派文学、俗文学の起源も亦猥褻ならざるを得ざるべし、俗文学とは何ぞや、曰く、戯曲小説、滑稽雑俳等これなり
(以上は前提なり)
浄瑠璃の祖と云へるは、小野お通の作「淨瑠璃十二段草子」なり、此物語は源義経が舍那王九と云ひし十五の春、奥州に下る途次、三州矢矧の長者の家に宿り、其家の一人娘淨瑠璃姫に通じたる色事、所謂濡れに濡れたる言の葉を十二段に書き綴りたるものなり、当時のお国歌舞妓亦淫靡の節多し、元和偃武の後も尚戦乱の余習として、剛壮を主とせる岡清兵衛の金平本の如きもの一時盛んに行はれたれどもこれに代りしは東洋のセキスピーヤ淨瑠璃中興の祖たる巣林子近松門左衛門なり、文学者某は「巣林子の作は絢爛高潔なれども後輩なる竹田出雲、並木宗輔、近松半二、西沢一風等は淫靡猥褻の作のみ」と云ひたれども、其巣林子の 作「堀川渡の鼓」には下女の部屋に夜這する醜状を描き、「冥途の飛脚」には「そんなら私はお湯わかいて腰湯して待ちます」と云ひ「関八州繋駒」には御殿女中の裸相撲を描き「脇へずつとそれては手負鳥見るやうで凄しかろと吠き出す」など猥褻至極のものも数多し
仮名草子の最も古き版本たる元和版の「秋の夜長物語」「鳥部山物語」、寛永版の「若道物語」、承応版の「犬つれゞ」等は悉く男色の淫猥本にして、後の好色本(浮世草紙)は皆これに倣へるなり
落語本の祖は安泰庵策伝の「醒睡笑」よりも古き「昨日は今日の物語」なり、此落語本全篇の過半は猥褻談にして、今日若し其一節にても抜載する者あらば、直ちに発売禁止の処分を受くべきものなり、其後の「鹿の巻筆」より「囃の尻馬」に至る凡そ数百種の落語本は悉く皆淫靡の極を尽せるものなり
浮世草子は一名好色本と云ふ、其開祖は井原西鶴にして、天和二年の「好色一代男」を筆頭とす、「消した所が恋の初まり」、世之助は五十四歳迄に三千七百四十二人の女を犯し、其六十歳の時には床の責め道具を船に満載して女護島に渡りしと云ふなど、全篇色気に酔はされてウンザリする物語なり、「好色二代男」「好色三代男」亦これに劣らず、「好色一代女」「好色五人女」は世之助に負けざる淫乱婦人、外に「男色大鑑」等のケツ作あり、これに続いて吉田半兵衛、石川流宜、都の錦、西沢よし、北条団水等、元禄の末までに二百余種の好色本を著はし、錦文流、奥村政信、八文字屋自笑、江島其碩等の亜流者亦安永までに三百余種の好色本を著はして世に公刊せり、明治の小説大家尾崎紅葉は酉鶴崇拝の巨擘たり、小杉天外亦其尻甜りなり
享保七年十一月、徳川幕府は好色本禁止の令を下したれども、社会の要求は其禁令を無視せしめて止まず、宝暦の平賀源内は「痿陰隠逸伝」「長枕褥合戦」等の著を公刊せり
洒落本一名蓖蒻本と称す、遊里に於ける売女蕩児の淫猥物語、享保の「両巴巵言」宝暦の「異素六帖」明和の「遊子方言」天明の「吉原楊子」寛政の「仕懸文庫」「辰巳婦言」等、享和までに三四百種の公刊あり、主たる著者は山嵐京伝、十返舎一九の徒なり、是れ皆誨淫の書なりしが、当時著者及び版元の罰せらるゝ者続出せしが為め終に閉塞し、これに代りしは人情本なり
人情本は文政二年の一九作「峯の初花」を初めとして傾城明鳥の艶物数種出で、続いて為永春水の「春色梅暦」「春色辰巳の園」「春色恵の花」等二百余種あり、いづれも春画を去ること遠からざる淫書なり
○ 江戸時代の末期、明治維新の初期
Section titled “○ 江戸時代の末期、明治維新の初期”江戸時代の末期、明治維新の初期は、天下擾乱の際とて、小説らしき小説も出でず、幕末合巻物(人情本)の続篇、或は同型の男女痴話物語、侠客伝、偸盗伝、忠孝美談等の記事的叙述物なりしが、明治十年後は「高橋阿伝夜刄譚」とか「島田一郎春雨日記」とかいへるが如き時事的小説に変じ、日刊新聞には「浅尾岩切其実競」などいへる人情小説盛んに行はれ、其叙述は為永春水流の「怪しき夢を結びけり」の旧式描法たりしが、政府は淫靡小説と見るも、敢て之を禁止せざりき、風俗壊乱として小説に圧迫を加ふるに至りしは西洋小説の輸入多く、其飜譯、其傾向の新作物出でし明治三十年後、欧米の恋愛神聖論、自然主義等の輸入にて、新小説家中に肉的描写を専らとせしもの頻出し、政府が淫風助成の害物として禁止処分を加へしもの多かりし、今左に「近代文芸筆禍史」に拠りて其主たる小説及び評論を挙ぐ
- 藤陰隠士の淫婆
- 山田美妙の大恥辱
- 巖谷小波の緑源氏
- 小栗風葉の寝白粉
- 長田秋壽の椿姫
- 斎藤緑雨の色道論
- 島崎藤村の旧主人
- 正岡芸陽のそれでも女か
- 佐藤紅緑の復讐
- 永井荷風のふらんす物語
- 徳田秋声の媒介者
- 森林太郎のセクスアリス
- 小山内薫の反古
- 青柳有美の恋愛文学
- 谷崎潤一郎の颱風
- 伊庭孝の接吻
- 岩野泡鴨の発展
- 長田幹彦の師匠の娘
- 伊藤銀月の女五人
- 森田草平の下絵
- 近松秋江の忍ぶ妻
- 田山花袋の燈影
茲に明治大正の文学者として著名なる森鴎外、徳田秋江両子の猥褻観、春画観を附載して其思想を紹介し、併せて小説其物の傾向を知らしむ
明治三十九年六月五回発行の「法律新聞」第二百八十三号に左の一文あり
○文学者の観たる猥褻
Section titled “○文学者の観たる猥褻”医学博士森林太郎君は、文学者として更に文学博士の学位を授与せらるべしとの風評あり、実にや君が鴎外漁史として文学の造詣や頗る深く、小説として舞姫、文使ひ、うたかたの記等、劇として新浦島、雑誌として「しがらみ草紙」「目さまし草」、美術学教師として審美論、其外水洙集、月 草、影草等、孰れも一字千金の評ある事なるが、其著書中鴎外文話第二十節に左の記事あるを見る
「余西欧の雑稗を嗜読する余、曾て其情事に係るもの数百条を手鈔し、題して櫚香猟艶の記と云ふ、未だ靡々の博采に及ばずと雖も、亦た徒然の漫興を寄するに足る、中には鈍東洋文士の夢見せざる奇観も亦た無きにあらず、頃日又た箇を啓て之を一読す、歎じて云く、今日の文学界は何ぞ其れ偏狭にして心を容るゝ度量に乏しきや、若し此記中の数条を摘出して、「ギョオテ、シエクスピヤ、ボツカチョオ」等の名字を除き、之れを奇の弁覈精詳を以て自ら誇れる批評家先生に示さば、其一瞥して猥褻と批し去らんこと必せり、豈に又殆からずや
是れ抑も何の故ぞや、嗚呼、是れ情詩の限界、未だ立たず猥褻の名義、猶晦きが故のみ、余が所謂詩は汎義の「ポエジイ」にして彼散文に対する韻語の謂に非ず、其情詩と云へるは渾て美文学上に男女の情交を描写して「エサチツク」の境に入れるものを統括せるのみ、情の詩に入るは勢、遮絡阻落すべからず、既に詩に入れり、冶容艶情、何れの作家か其真に逼るを望まざらん、若し此間にして一の閾線を尽して以て、許すべきと許すべからざるとの分を明にするに非ずんば、余は将にその積弊余殃の底止する所なきを見んとす
詩人の情を写すや、自ら許多の方便あり、而して其方便の充分に発生したるは、新教勃興後の欧洲に放ける詩文に在り、請ふらくは左に其一斑を列挙せん、其引証の如きは自ら独逸人多し、余が平生の精読する所、亦た此にあるを以てなり
第一、情を写すに理想的と自然的との別あり、理想情詩は温藷風流、縹渺として摸捉すべからず、彼美を以て望むべく、近つくべからざるものとせり、「ラランド」の写しゝ舟人の、岸辺の城に住める姫人を恋へる詩の如し、自然情詩は情と欲とを分たず、情交を見ること、譬へば猶目前一杯の酒のごとし、「ハイネ」が韻語を以て著したる狭斜日記の如し、而れども自然の詩人は未だ必ずしも悉く「ハイネ」が如く厭世的ならず、「ギヨオテ」に至ては則深く人情の醇疵相半せる迹に通じ、其資村を自然にもとむるや、採擇必ず其宜きを得たり、曾て云く、女子の愛は寝や久し、男子は一擁抱毎に之を傾瀉すと、又た「ヰルヘルム、マイステル」の主人公が、暗中自ら薦むる美人に遭へるを叙して云く、 渠はこの来り抱きし軟温なる胸を、推郤くる力なかりきと皆な是なり、独り「ゾラ」は則ち更に一層を進めたり、「ギヨオテ」の自然は時に人をして自ら忘れしめ、「ゾラ」が自然は恒に人を駆使す、見ずや「シルエエル」と「ミエツト」とが野合は、実に七月の炎陽に蒸されたる古噴の土気に醸成せられたるを
第二、情を写すに(敢の下に心)態を主とすると、高致を主とするとの別あり、彼は易くして此は難し、「シエクスピヤ」が伊太利の相讐したる二家の児が相慕ふ状を写しゝ伝奇は、高致極まれり、「ケルレル」が村中の「ロメオ」及び「ユリア」は此の案を一翻し、(敢の下に心)態を以て之を出したり、禾雲二児を埋めて皓歯日に映し、抑臥して告天子の飛翔を観つゝ相◯する一段は、妙構妬むに足れり
第三、情を写すに諷剌と訐発との別あり、「デカメロン」の伊谷を剌れるは、自ら是れ一種不平の鳴なり、「ドユマ」が山茶。婦人の一作は、巴里花柳の写真図なり、皆な以て熨貼の証例となすに足れり
写情の方便は此の如く許多なり、而して猥褻は焉にか在る曰く有ること莫し、苟くも「美」の力を籍て人の感情を牽くは、美文、妙術の即身目的に負かざるものなれば、猥褻の罪過は此間に存立せず、渠は唯狡獪なる作家が故意に人の神経を刺衝して、欲焔を煽起する時に於て纔に生ずるものなるのみ、猥褻は理想的を避けて、自然的に就くものなり故に「ハイネ」が狭斜記と「カザメソ、フオオブラ」の文字とは、相距ること毫釐のみ、「ゾラ」の継母が養花窖裡、其子と通ずる段も、亦已に猥褻なり、東洋にて最も之に近きは金瓶梅なるべし猥褻は高致を以て出さず、(敢+心)態を以て之を出す、彼の「ケルレル」が村児の恋情と、曾て「ハウフ」の駁撃を蒙ふりし「クラウレン」の小説にて、野花目を悦ばしむる「ミヽリイ」が、衣裾風捲て素脛露呈する談とは、其事殆ど二なし、唯之を写す用心、芸術の本領を守ると否とのみ為永春水は真に我「クラウレン」なり、猥褻は諷剌に宜しからず、訐発に宜し、訐発中「ドユマ」が買笑の事を描出せるは猶美術の境域を脱せざれども、是れより一歩を進めて、「スケヲラ」が男子の買笑を写成せるに至ては、古人已に其容すべきに非ざるを断言せり
敢て天下多少の批評家先生に寄語す、人の著書を貶して猥褻の名を彼らしむるときは、須く先づ其着想の存ずる所を精覈し、美文学的の規矩に準じて其判語を下すべし、豈に漠然として詩賦の男女の交情に及ぶものを目するに猥褻を 以てすべけんや、世の教育家は少年児女をして読ましむるを欲せざる小説を以て猥褻なりとす、世の宗教家は社会の真相を訐発して西俗の所謂口前に一葉なきものを指して猥褻なりとす、然れども芸術的の小説界は決して少年児女の其全境を領略すべきに非ず、又た其社会の真相を描写曲尽するを妨ぐるに由なし、余は彼故意に人の神経を刺衝して欲炎を煽起するものを以て猥褻となし、之を禁ぜんことを願ふものなり、何となれば此種の詩は、既に芸術の即身目的の外に立ちて、美学上亳釐の価なきものなればなり、西欧の詞客云へることあり、護徳の招牌は真美文学の門檀に見えずして、却て兎園冊子を鬻ぐものゝ専有する所なりと旨なる哉言や」
次は明治四二年八月一日発行「美術の日本」第一巻第四号に「文芸雑感」と題し、徳田秋江と署名したる記事中に左の一文あり
Section titled “次は明治四二年八月一日発行「美術の日本」第一巻第四号に「文芸雑感」と題し、徳田秋江と署名したる記事中に左の一文あり”次は明治四二年八月一日発行「美術の日本」第一巻第四号に「文芸雑感」と題し、徳田秋江と署名したる記事中に左の一文あり
此外に「森鴎外氏の魔睡と小栗風葉氏の姉の妹」と標記せる一節ありて、其筋の風壊禁売を非難せり
菊地容斉と九山応挙
Section titled “菊地容斉と九山応挙”先夜ある知つた画家の処へ話しに行つた時、種々四方山の話から、はては、私の方から「お家には、定めて春画があるでせうが、一つ見せて戴きたいものです」といふやうなことで遂々其家にありたけの春画を見せて貰つた、尤も木版ではなくつて、皆な其の画家が自分で、徳川時代の名家の作を模写して置いたものであつた
まづ菊地容斉のが沢山あつた、随分沢山書いてはゐるがその中に新たなる意味を以つて私を教育するに足るものは無かつた、それから何とかいふ名人が描いたのだといつて、「袋法師」と題する続き物の、絵の衣装風俗の上では平安朝時代の裏面を諷刺したものがあつたが、それとて絵画そのものから新しい価値を発見することは出来なかつた、それから此度は、葛飾北斉の春画の戯画があつた、これはなかなか面白かつた、陰性と陽性との精力競争を画にしたもので、或は人生をお可笑く表象化したものであるとも言へるけれどもそれが、本家春画の戯画であるだけに、唯一通りのお可笑味、面白味はあつても、私に対しては遂に何等の森厳なる意味は示さなかつた、その次に、丸山応挙の十二枚の続き物があつた、それを見て、私は所謂厳粛なる主観を動かされた、画の題材は、これも徳川風俗で、ある老婦人が、俳優を買ひに行つた処を描いたものである、その老婦人が性欲の快楽を満足することを得て、殆ど獣に遭った所を表はすのがが、此の絵の主眼と認むることが出来る、その十二枚を追ふて、老婦人の顔面姿態の変化を凝視してゐると深刻、真に人の肺腑を貫くものがある、此処に到つて春画は私に取つては決して風俗壊乱の淫画ではない(中)私はその時その春画を見て寸亳の肉欲挑発を感じなかつたのみか―感じても差支へないが―それを見て何とも名状し難い恐怖のやうなあるものを感じた、粛然として、覚えず居住居を直させられるやうな心持がした、応挙は幽霊画の名手である、或は、その春画中の老婦の顔面姿態が、幽霊画のやうな感を与へたのも一つの原因であったらう、乍併私はそればかりとは思はぬ、人間の獣性を物凄きまで真写したのが主な原因である、他の春画は成程細密には描かれてはゐたが、意味に何等の新しいものがなかった、之に反して応挙の画は極めて粗描ではあるが、唯徒らに所謂春画を楽しむではゐない、画表に一団の生命が流動して、十二救は人間の心理の継続体をなして、宛ら視る者に急迫せんとする勢がある
さてもその晩、春画の帖は畳まれた、さうして私の念頭には件の老婦人の顔面姿態の変化に依つて表はされた人間―或は生物―一般の浅ましい、然しながら貴重な止み難い性欲の威力といふものが種々に思び回された、かうして私が、その晩、最初、春画を見たいと思つた際の、一種の好奇心はそれが為に掻き消されて了つた、で、私が、春画の帖の畳まれた後になつても、まだ頻りに応挙の画の力を賞讃してゐると、主人の画家は、徐に私の方に向つて 「僕は画家で文学のことは一切分らぬが、此の頃自然主義といふものが、盛に文壇に流行してゐて、それが為に青年男女の教育を妨害せられることが夥しいといふことであるが、僕もそれに同感である、僕は今日になつても文学書としては馬琴の八犬伝に優れたものはないと思つてゐる、君は文学者、一体自然主義といふものは何ういふ点で好いのか、一つ説明して聞かし玉へ」
私は、画家の詰問に対して微笑しつゝ斯ういいつた
「自然主義の外道は、即ち今見た春画である、さうして自然主義の極意に合つてゐるものは、あの応挙の画である」
私は、それから、今日八犬伝を以つて最も優れたる文学としてゐる人に飲込めるやうに、雑と自然主義の精神を説いて聞かした、けれども画家は、矢張り応挙の春画と他の春画との優劣を分別し得ないで、徒らに好奇心或は狭義の技術鑑賞の上から画帖を収めて置くのであらう