鉱物
さいの神、道祖神、近世いふ生殖器神の事は、予の旧著たる略記「猥褻風俗史」にも、「神礼」といへる条に古今数十の書を引用して記述せり、出口米吉子の「本邦生殖器崇拝略記」には日本全国に分布せるもり百二十余を列記せり
其神礼即ち男女生殖器の偶像には、天然と人造との二種あり、天然石と銅鉄にて造れるもの、木にて造れるもの、石にて造れるもの等の別あれども、茲には天然鉱物の事のみを説かざるべからず、石の神礼及び好事家の珍蔵せる陰陽石には、天然の物あり、天然と称するも実は人造の物あり其区別判然せざれども、日向小林の陰陽石、紀州那智の大××石おつび石、播州神出山の陰陽石、メツコ、ヲツコ、相州鎌倉鶴ヶ岡の陰石、因州丸山、豆州熱海錦浦のお××岩等は、天然物又は天然物に幾分加工せしものなるべし、天保九年刊行の折本「妙のお奇談」及「続燕石十種」に収めし「金杉日記」に詳記せる志賀理斉が獲たる陰陽石は天然物と称せり、木内石亭著「雲根志」に記せる陰陽石の条に曰く
「陰陽石和産所々にあり、駿州大并河の上に藁科川といふ川あり、当辺に陰陽石を産す、其石大小あり、いづれも色黒し、但し陰石は肉赤く中に核ありて馬蹄石の一種なり、真に女子の陰門に似たり、多くは富士川大井川にて拾ふ、此所より流れ出るなるべし、明和年中、遠州金谷宿の某訪れていふ、此石富士河大并河又は安部河等に多し、こゝに不思議なるは、人の渡る所にはあれども外にては得難し」
「骨董雑誌」初編第三号、盆石の条中に、故小磯前雪窓翁の談として、大井川の男根石は、常に雲助等が裸体にて徒渉せる故、アヤカリて産出せしなりと記し置きしが、右の俗説に拠りし戯語なるべし
要するに、天然石といふは偶然の酷似なり、加工の人造は生殖器崇拝の余波と見るべし
日向高千穂の「あめりぬほこ」即ち「天の逆鉾」を神話的妄誕にあらずして実事とすれば、金属の天然物なり
寛政七年刊本、橘南谿著「西遊記」続編に、俗に「りんの玉」といへる陰具を天然の宝玉と見て珍重せし談あり
「唐土の真中に緬甸(めんでん)といふ所ありて、それより緬鈴(めんれい)といふ物を出す、其大きさ龍眼肉程ありて、人の肌の温気を得れば自然と動きてやまず、彼地の淫婦これを以て楽しみとす、近き年京都にも何方よりか此緬鈴売物に出て、 かなたこなたに取はやし、おのれと動く名玉なりとて、如意宝珠といひふらし、おそれ多くも王公貴人の御手にまで、ふれさせ給ひてめでさせ給ひける、誰一人緬鈴といふものにて、不浄のものとは知らざりし、其果はいづかたへ買取けるや行衛もしらずなりぬ、余も只其噂のみを聞て其物は見ざりき、彼龍玉もかゝるたぐひにてあらざりしや、其後伊勢国津の城下に遊びし時、余も緬鈴を見たり、大さ二三十匁の鉄砲の玉の如く重さ纔に七八匁唐金にて作りたるものゝやうにて、内に嗚り響くものあり、掌中に握りて少し動かせば、其玉大に響きうごきて掌をふるはす、蛮夷の房中陰具奇妙の細工なり、此玉津より五里ばかり西の方、小倭郡佐田村弥兵衛といふ百姓の家に数百年持伝へて、鳴玉と名付け、不浄の物なる事をしらず、世上の宝玉のやうに珍重せり」
文久元年の刊本「雲錦随筆」巻の二に、近江琵琶湖の瀬田川より山城宇治橋までの略図を掲げあり、其中央の川中に、「抱付岩」と記して陰陽和合の岩を描けり、未だ其実物を見ずといへども、此図に拠りて察ずれば、擬似の天然物に人工を加へしものなるべし