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人類

我身人類と他の獣類魚鳥類との異同を説ける人類学、是亦猥褻に属する事多し、進化説に於て、人類の心身、其心身発達の順序は全人類進化の程度を追ふものなりとか、生物の育成は其種類の歴史を繰返すものなりと云へる原則に拠つて察すれば、幼童の包茎は原始人類の包茎を示せるものと見るべく、少女が陰部を露出して耻ぢざるは原始人類が裸体にて恥ぢざりきを証明するものたり

又変態現象に就て見るも、半陰腸半男女と呼ばるゝフタナリは、所謂「先祖がへり」にして、雌雄同体時代に復帰せるものとすれば、動物学的人類学に属する問題たるべし、次に人類が他の動物に接触する破倫打為の獣姦は、原始人類が常に執りたる蛮行の遺習遺伝と見るべきか

手淫は人類と猿類とのみに存する姑息行為なりと説きし人類学者もありたり、尚一二の例を挙げん

動物の牡は一般に生殖器が隠れ居るに、人類は之を包蔵すること能はずして、常に露出し居る理由如何と云ふに、人類も原始時代、他の動物の如く性交に時期ありし際には他の動物の如く生殖器が隠れ居たるものなれども、それが進化して四時性欲を遂行し得るに至りし結果なり、凡そ生物学上、動物の器能は、其使用度数の多少に因って進化し或は退化するものなるが故に、人類は此原則によりて今日の如く進化せりと人類学者は説けり

大正七年一月発行の「男女性学雑誌」第一号に、予は左の如き一項を記載せり、是亦人類学説の一なり

「極楽浄土の一連托生を期して情死せる男女、天変地異のために溺死せる男女、厭生的自殺の投身男女、是等の屍体が水に流れる際、概して男は俯し女は仰ぐと云ふ事実に就て、昔の学者は、これ天地覆載の理なりと説いて満足して居たが、近時の学者は之を生理的に解釈して、男は前面たる胸腹に肉量が多い故に俯し、女は背面に肉量多く、且り後頭部臀部の発達等、其重量にて仰ぐなりと云つて居る、予は之を人類学的に考察して、何が故に男には胸部に肉が多く、女には背面に肉が多いかと云ふ疑問を解決し得た、それは人類原始の四り這時代に於ける男女の態度は、牛馬犬羊の如く背腹相接触せしめたので、其接触部が発達した体質の遺伝であらうと思ふ、若し然らずとするならば、男は発動的進取的なるが故に胸腹に肉が多く、女は受動的仰臥的なるが故に背面に肉が多いのであらう乎」

又予は大正三年五月発行の「奇」雑誌第一号及び次ぎの第二号に渉り「人類性欲の進化」と題して、左の如く記述せり

動物の性欲(色情淫事)は種族継続の天賦に出るものであって、両性が相牽引するのは、生殖の目的を達せしめる手段であるが、茲に一つの疑問とすべきは、下等動物には所謂交尾期があって、生殖に必要だけの性欲を発展せしめ、其後は一時休止するやうになって居るが、特に人類のみは其交接期と云ふが如き時なく、年がら年中性欲を発展せしめて、少時の間断もない事になって居る、随って生殖に差支へのない配偶者のあるにも拘らず、他の異性に対して性欲を遂行するに至り、終には姦通、強淫、放蕩、淫奔、同性愛等、破倫の行為を敢てせしめ、其結果家庭の不和不如意は勿論、資産蕩尽の破滅を招き、詐欺偸盗の罪悪を犯すに至る者が多い

これが若し彼の下等動物の如く、秋春二期とか、牽牛織女の如く一年に一度とかいふ交接期がありて、其時にのみ生殖作用をなす者でありたならば、世は泰平にして「人の心は長閑からまし」であらうと思ふが、現在の如くダラシな い状態では、善美に造り給ひしと云ふ神慮の程も訝かしくて、甚だ怪疑に堪えないとする人もあるであらう

然しながら、人類は其原人たる進化の初期頃から、斯くの如く性欲放縦であつたのでなく、其初期には他の下等動物と同様、一定の交接期があったのである、現に印度のホー人、呂宋(ルソン)のコッダン人、豪州のオツチアンジー等、野蛮人種には、今尚下等動物と同じく、交接に一定の時期がありて、平常は性欲の情が起らないさうである

斯くの如く交接期のあつた人類が、何故放縦となつたかと云ふ問題の解決は、大に興味あり利益ある事ではないか、此問題に就ては、多くの学者もマダ解説をつけて居ない様であるが、只一人(日本の某氏)の説に

「本能に役せられて、情欲の奴隷となるに因る」

とのみ記してあるが、斯かる解説は、旧式の道徳論者が唱へる様なことで、苟も最新の科学上から見て男女の関係を研究したと自称する人の云ふべき事ではない、現今の学者たり研究家たる人ならば、其本能の起原、即ち各人種が乱交するに至つた進化の原理を闡剛しなければならぬのである、因て卑見ながらも予は其所信を述べやう

生殖本能の発揮、即ち情欲の衝動は、生殖が目的で起るのでなく、又行楽が目的で起るのでも無い、本能に役せられる情欲の遂行が快楽と成り、その結果が生殖と成るに過ぎない、これが則ち造花の妙機である、故に人類のみが生殖作用を行楽手段に供するとは云へない、只人類は一定の交接期間にのみ情欲の衝動があつて、其生殖作用を施した後には冷静である他の下等動物の如くでなく、所謂年がら年中、その本能の発揮、即ち情欲の衝動があつて、生殖以外の徒労を敢てするに至ったまでのものである、茲に徒労と云ふのは、天賦の生殖本能に適はない空費の動作であるから、予が仮りに使ふ語であるが、之を其情の満足から云へば、徒労にあらずして、寧ろ人生の最大快事である

人生の最大快事と云ふ、これ進化の理由ある所にして、独り人類のみが其利用の宜しきを得たる、至真至善の特長特点である、之を一言にすれば、身体的の進化と共に精神的の進化を促進せしめたる造化の妙機、即ち人類の最大発明である

かの四ッ這の境遇を脱して直立直行するに至つたのを、人類肉体的最大発明であるとすれば、四季を通じて交接するに至つたのは、之を人類精神的の最大発明であると云はざるを得ない

人生は色気と云ふ此快事あるに因って、奮励も起り、労働も苦しからず、随って世は倍々進歩発遠の文明を得るに至つたのである、此一面より云へば、文明の淵源は滴る色気である、若しも人類が他の下等動物の如く、一定の交接期で了るものであつたならば、人類は倦怠懶惰にして進歩なく変化なき最野蛮的状態を脱し得ない、その事実は未だ進化せずして現存せる印度のホー人種、呂宋のコツダン人種豪州のオチャンジー人種等が証明して居る、故に人類性欲の進化、即ち交接期の不定は人生の花にして又好果を結ぶの大なるものと断言すべしである、若しも我々人類に、四季を通じての色気が無かつたならば、此世は寂寞無聊、冷淡酷薄、実にサビシイ情ないものであつて、我々男女は恰も路傍の犬に均しい状態であらう

只その情欲の発展放縦なるがために、種々の罪悪を醸す者が多いのは、これも利益に伴ふ弊害の一事であって、甚だ遺憾憂慮に堪えない所であるが、これは道徳進歩の未だ足らざるに基因するのであるから、其責任は現在及び将来の新教育家に負はしむべきである」

此論文いさゝか俗調なりといへども、其論旨は今も自ら信じてかはらざる所たり