絵画
「政治、宗教、文学、美術等の起原は悉く猥褻なり」といふ予の講演筆記は載せて「面白半分」にあり、其美術の一種たる「絵画」の条に、小児は未開時代の縮図なりといへる進化説を根拠として「絵画は生殖器の図としてのしこし山、或は草鞋蟲の如きものを描きしに初まることは、古今東西の絵心なき児童が、白壁又は便所の板に怪しきものを描けるにて知るぺし」と云ひしが如く、絵画の起原は猥褻画なりとするが予の持論なり
文学博士黒川真頼先生の著「絵画沿革考」に、古墳より発掘せる甕瓮に彫付けありし拙劣なる男女の裸体画を模出し「両足ノ問ニ画ケルハ陰嚢ナルベシ、陰門ニハ薄キ竹箟ノ如キモノヲ以テ深サ七厘バカリサシ入レタリ」との説明を附せり
鳥羽僧正の戯墨たる「勝絵」を初めとして、爾後の画家、其巨勢家、宅磨家、明兆派、雲谷派、土佐派、狩野派、円山派等の流派を問はず、南宗画家の畤筆、浮世絵師の密画等竹夭屯日の画を描かざる者はなかりし、享保六年公刊林守篤撰集の「画筌」巻五には「好色春画之法」と題して、画家のために春画を描く秘法の伝授、男陰女陰、陰毛等の描法を指示せり、徳川幕府が春画淫書の版行を禁止せしは享保七年十一月なり、其前年なるが故に斯かる公刊をも許されたりしなり
「昔は春画を公然出版して売買するも何等の咎めを受けなかつたのである。その出版は凡そ承応明暦頃が初めてあらう、菱川派の全盛時たる延宝天和貞享元禄の頃には盛んに出版された、当時の春本には麗々しく「菱川師宣画」とか「古山師重画」とか「絵師石川流宣」など署名し、尚出版書肆も亦「松会開版」とか「鱗形屋板行」と明記してある、これより後鳥居清信、奥村政信等も多く描いたが其署名は少い、京都では吉田半兵衛、西川祐信等署名のもの多く出版された、下つて宝暦明和安永天明頃には月岡雪鼎、鈴木春信、磯田湖龍斉、勝川春草、細田栄之等暑名のもの多く出版され、寛政二年幕府が絵本絵草紙取締の令を発した以後は一切署名しない事になつたが、文化文政頃より天保嘉永頃に至る歌川派の全盛時には、匿名を署する事になり……」予の旧著(此花)
法禁の厳となりし時代の公刊物に「あぶな絵」あり、春画を去ること遠からざる挑発的淫画なりし
斯く盛んに行はれしは、春画は火災を除けるの厭勝、具足櫃に春画を納めて出陣すれば戦争に勝刺を得、婦人が箪笥に入れ置けば衣装増加す等の迷信あり(口実としても)尚少女婚嫁の際に必須の持参品たり、恭賀新春の贈答品たりし等、其需用の多かりしに因るなり
一方浮世絵派外に於ても、供給の揮毫少からず、円山応挙の七難七福図、狩野音信の和讃絵巻、刊本としては大東閨語、春轡折甲等あり、画家の逸事としては「雪山告生伝に
「陰器一茎宛を馬鹿者共に担がせたり」あり、「近世名家書画談」には「男根人頭の山下行列図」あり、是等の類を一々挙げたらんには、五紙十紙にても尚足らざるべし 又近世の絵画展覚会に陳列さるゝ新画中に、肉情挑発的のものありとて、その撤去を命ぜられたる事数回に渉れり、美術鑑賞眼の有無論は別として、風紀取締の当局者に淫猥品と認定されしは事実なり
此外、淫画を染付けたる陶器、袋物あり、近刊の新聞には
「近頃市中の呉服屋で、羽織や前掛の裏地に春画や女の裸体画を肉筆或は織込んだものを販売する向が尠くないので警視庁では風紀上棄て置かれず、之れが取締中の処、数日前新宿の某呉服店から」云々との記事も見えたり