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美辞

美術術の一種にして美文学といへる美辞学に於て説く婉曲の美文法には、猥褻の事物を比喩語又は形容語を仮りて美化せしむること多し、其例の二三を云はん

荻生徂徠著「南留別志」に、小野小町の歌として誰も知れる「秋風の吹くにつけてもあなめなめ、おのとはいはじすゝきおひけり」は「猥褻なる歌なり」と断言せり

明治二十一年八月発行の「浪華新聞」所載「訳語の妙」に曰く「外国語を我邦語に訳述するは、文学の開けたる今日といへども容易ならぬ業なり、殊に直訳にあらで意訳することには頗る巧拙あり、曾て何某が仏国革命時代の事を記したる小説を翻訳中、王宮内の醜態を最と詳に且つ巧みに書きたる一節ありて、之を其儀に飜訳すれば猥褻に渉るの嫌ひなきにあらず、さりとて其一節を除きては、前後事跡の連絡を失ふより、再三構思して竟に夫の高李迪の詩を仮り来つて

曾て明月西園の宴に持り、花を隔てたる小犬に其影を吠られし事もありしとかや

と簡短高尚に意訳せしを、交友見て以て妙と称せり」

俳諧にも此例多し、「梅室両吟揃」所載の「猫舌も病のうちと笑はれて(三湖)局々の夜の不行儀(梅室)」といへるも美化の句なるべし、横井也有の「鴉衣」拾遺下巻所載の「あてかき」中にも同想の句少からず

「桃から生れた桃太郎」といふも、比喩的美化の語なりと説く者あり、意義は猥褻とするも、俗言俚語の、馬がお辞儀して通る、西瓜の棚落ち、挑灯で餅を搗く、前の空家、指人形等は婉曲の艷語と見るべし

法学博士江木冷灰先生著「山窓夜話」に曰く

「詩歌文章、奇にして法あり、正にして葩あるもの、以て、劣情を花鳥し、醜態を風月するに足る」

卑猥を美化せしむ美辞の美を揚ぐる美辞、簡にして妙、超凡にして神韻あり、真才真学真性惰を有する達道の士にあらずんば、成し得ざる真風流の真文藻と評すべきか

予の旧刊、大正三年七月発行の「奇」雑誌第三号に「醜事の美文」と題して左の如く掲出せり

「淫猥の記事とか風俗壊乱の文章とか目されて、新聞紙法や出版法に問擬されるのは、ツマリ醜事を醜文に綴る場合であつて、其醜事を美文に表示した場合には、美感こそあれ、何等厭悪の感は起らないものである、随つて法律違反と認定される事もない

先頃「大阪時事新報」が合乗俥の事を記した中に、合乗俥は男女(客と芸妓)合乗用として、今尚遊廓内で行はれて居ると云つた終りに

「そこで合乗を曳く車夫にも又、それ相応の心得が肝心である、先づ一例を云へば、車の梶棒を下ろして膝掛を取る場合に、必らず男客の方から外す、そして女客の前は御当人が手を掛けて取除けるまで決して手を出してはならぬ、これが女客の神聖を尊ぶ所以だ、とは中々以て道それぞれの苦心はあるものだ」

文章でも談話でも、総て斯う行きたいものであると、我輩は少からぬ敬服の一読三嘆の感に打たれた」

右の「これが女客の神聖を尊ぶ所以」とは、明泊十七八年の頃、「合乗り母衣かけ、頬ツぺたおツ付け……テケレツハ」といへる露骨卑猥の俗謡が流行せしこともありしが如く、遊客と芸妓との合乗りには、エテ其醜事の行はれ易き故の事と判定せざれば、其文章の妙を解すべからずと知るべし