治療
医学は其範囲広しといへども、生理学、病理学、治療学、薬剤学を起礎として疾病治療を目的とするものなり、其治療に就て略述せん
徴兵槍査の際、いつも壮丁の三分一は花柳病に罹れる者なる事を発見すと聞けり、親の因果が予に報ゐて性病遺伝、神経衰弱症、脊髄炎症、腰病、眼病等にも黴毒に原因する者多し、婦人病の過半は子宮病又は子宮病に連関せる諸病なり、ヒステリー、肺結核などにも性病に原因するものあり、曾て鼻耳科医の語る所によれば、鼻の病は十中の三四割、子宮病より来れる者あり、婦人科専門医の治療を受けて、子宮病を全治せしむれば、其鼻疾は自ら癒ゆべしとて突き放すは毎日数人なりといへり
斯く性的疾病多し、其治療に神秘破壊の事多きは異とすべきにあらず、加之、医学博士たる者が治療を機会に婦人患者を犯し、所謂凌辱事件として世に喧伝さるゝ事実は二三に止まざるにあらずや
又近年「小野小町病」といへる新名称を附せる旧病あり「妙齢の婦人で生殖生理上に大欠陥を有し、外部には何の異状なきも、腔の組織を存せず、ために結婚不可能にある者、俗に之を小野小町病と称す、由来大なしといへば、多くの人は妄誕の仮想伝説なりとして、斯かる奇病の存在を疑つて居た、然るに統計の示す所によれば、その畸形は屡々見られるのであつて、たゞ可憐な患者の心理状態より、自ら恥ぢて深く之を秘し、医療を求むる者稀なるため、世に知られる事がないのである、のみならず、こゝに十数年前までは、無腟婦人に対し、人工腟を造るには、陰部附近の皮膚直膓の一部分、又は小陰唇を以てするのみで、皆失敗に終つた、然るに独逸のヘーベルリン氏やポールドウイン氏等が、膓管を以て造膣することを発見応用せる結果、造腟術はこゝに一大福音を得たので、これまで伉儷を求むるに由なく、不幸をかこつた婦人は、回春の喜びに接し、結婚後女子としての機能を営む事の出来ないため、破鏡の嘆を見た婦人は再生の思ひをするやうになった」とは、医学博士森正道氏談として去日の「東京日日新聞」に載する所なり若し平安朝時代に此発明あらしめば、当代の才媛をして、「あなめあなめ」の嘆を発せしむる事なく、又「アイわツさや小町さなどゝついと立ち」のイヤナ代名詞に使はるゝ事もなかりしにと、転た艶なる威を越さざらめや
近世新聞紙上に「家庭問答」とか「衛生問答」とかいへる記事を連載すること流行し、その中に「私の妻は病気で子宮を摘出しましたが、性交上に差支はないものでせうか」とか或は「手淫のために頭痛がします、其療法をお聞かせ下さい」とか、或は「あるべき所に毛のなき云々」など、読者の問題らしき事に解答を附して公表せるを見たりき
例の新古書渉猟癖によりて得たる古き医療談及び民間素人治療法等の中より奇抜なる事項の五六を左に列記す
△余(千葉県堀越兆淳)師門ニ在ルノ時、下総佐倉城下ニ渡辺松兵衛ナル者アリ、其妻年三十七、奇疾ヲ患ヒ、前陰ヨリ白色柔靱ナル臍帯状ニシテ、其太サ相類スル者ヲ下垂シ、稍々延長シテ、殆ント三尺五寸許ニ至ル、因テ居常怏々トシテ、小帯ヲ以テ巻縮束約シテ腹部ニ◯遶ス、実ニ憫レム可キ情態ナリ、父母憂慮ニ堪ヘス、屡ハ外科医ヲ聘シ治ヲ托スト雖モ、衆皆ナ危疑シテ敢テ裁断術ヲ行フ者ナク徒ラニ姑息法ヲ施スノミ、是ニ於テ吾師ニ就テ之ヲ謀ル、師曰ク、此症固ヨリ内治家ノ能ク為シ得ル所ニ非ラス、然レトモー術ヲ得テ後報スヘシト慰論シテ還ヘシ、余ニ命シテ古書ヲ捜索セシム、偶怪病一得ヲ閲スルニ該病ノ如キ治験ヲ掲タリ、其首ニ曰ク、生姜ノ搾汁ヲ作リ之ヲ塗擦シテ立トコロニ癒ユト、師曰ク仮令一生姜、何ノ神ナルモ信拠スルニ足トスト雖モ、其術ニ窮スル、盍ソ之ヲ試ミサルト、直チニ徃テ之ヲ徹頭徹尾ニ塗擦スルニ壹ニ料ラン、忽然小蛇ノ勃起スル状ヲナシ、須曳ニシテ仰屈力ヲ極テ異音ヲ発シ、立処ニ没入ス、此時挙家皆欣躍シテ曰ク、是レ夏天◯蒸極ルノ際、涼風驟カニ掃去ルノ愉快ト一般ナリト、叩頭シテ深ク謝ス 明治十八年八月発行「温知医談」第七十二号
△原雲庵は六七十年前(天保より)都下(江戸)に行はれし医なり、奇思ありしと云ふ、嘗て中橋辺一商の妻の病を診して、反つて其夫に薬用せよといへり、夫愕て其故を叩くに汝の婦の病、欲事遂げざるに得たり、汝必ず陽道痿弱なるべしと云ひしが、夫屈服して薬を乞ふ、因て処療して妻の病も勿薬にて癒えたりとぞ(時置読我書)
△婦人嫁して房事を専らにする時は、大便結して廁に登る事なし、数十日にして尚結す、三黄湯にて宜し、または麻仁丸を与へて効あり、又小建中湯其効妙なり、此症新婚の常にして、薬を与へずして自ら癒るもあり、更に驚意すること勿れ(中酸漫録)
△女見陰門生れながら皮開かざるは、銅銭をよく磨して切りひらき、古き石灰を塗れば、頓て癒えて常人の如しとい ふこと通辺方に見えたり、年長せざる時早く開くべし、男児の根皮閉て小便のみある者も斯くすべきにや(塩尻)
△鶴の羽茎をカーテルに代用す―
外科医華岡青洲、石淋の治法を試むるに当り、陰茎を割断して之を去り、縫合せを施し膏を貼す、内に鶴の羽茎を挿みて便道を補ふ妙なり、古医書にあり、是れ留置カ、テルの本邦に於ける嚆矢となすべきか(先哲医言)
△(原漢文)娼◯(女+帝)始テ妓院ニ入リ客ト接スル十日余、必ス寒熱腹痛ヲ◯ス、俗ニ称シテ淫腹痛トイフ、海羅(カイラ)能ク之ヲ治ス(福島独愼軒)原註、案ずるに蘭軒医談に海羅湯の治験を載するに由つて徴すべし、凡そ海草は能く黴気を避く、故に京師の妓院多く青海苔を食す(同)
△蛇まへに入りたるには、蛇の尾の外に出たる所を縄にてゆはえ、尾に灸をすゆれば忽ち出ると也、又蛇の尾をゆはえ、小刀にて尾さきを少し破り、胡椒七粒入るれば忽ち出づ、出たる後、雄黄朱砂を粉にし、人参の煎湯に入れて女に呑ましむべし(女節用大全)
渡辺幸庵対話抄には、塩に蛙を入れて出すとの事あり
△婦人陰所の疵を治するには、古き雪蹈の皮を黒焼にして胡麻の油にて付くべし寛政(訳海)
△ある人いへらく、癪持の妻もちて、いたくさしこみたらは、薬よ医者よとさわぎせず、角のふくれを◯めるに合はせ…………脊骨の左右を一二三四五六七八九十と撫でおろし見よ、下ること妙なりとぞ(気象考)
△陰戸の臭きを治す法―
八月に榎の実の紅く熟したるを採て陰中へ納るべし、自から臭を去る(大全針刺宝)
以上の数節に類せし事尚多し、又こゝに抜記を許されざる性的卑陋の治療説十数あり
古きは「異疾草子」に奇にして醜なる挿画数葉あり、近きは「徴療新法」に目を蔽はしむる彩色図解十五六葉あり、斯かる古今性的図書、皆これ医学家治療家の宝典たり
風熱発於肌膚といへる浸淫病、性交不能の陰萎病、恋病と呼ばれし花風病、萎黄病、又精神病科に属する陰部露出症
「女子淫乱病は言語挙動及び客姿悉く男子の色情を挑発すべき素振を為し、甚しきは陽に手淫又は交接運動を行ひ、或は交接を要求するもあり」(哲学大辞典)「文化頃女乞食にて色気違あり、あの人が尾張様だといへば、誰にも抱きつく、尾張様御門前にて御駕へ飛かゝりしとて、世の人、尾張様お妾といふ渾名を呼べり」(続飛鳥川)などいへる色情、是等も皆医家を煩はすべき性的疾患ならずや
(附載)人類去勢術
Section titled “(附載)人類去勢術”明治三十八年三月発行の「日本」新聞に左の記事あり「支那の宦宦の取調をした男の話に、其起原は不明であるが、支那の典籍の上に初めて現はれてゐるのは、遠く周朝の昔で、周公が当時勅定した宮刑、六大刑の中第五番目の刑罰が此宮術即ち去勢術である、支那の宦官は、固と所刑の奴隷であるが、後世に成つてからは、隠然たる一勢力を宮中に持つて来た、此去勢の奴隷を使ひ得るは、支那皇室にのみ存する特権で、帝は三十人、皇子皇女は各三十人、帝の遠親のものに成ると各十人といふ様に階級がある、それから昔の宦宦は右の如く一種の所刑者であつたが、今日は強制的にやられた者と、自分で志願する奴と、小供の時分に両親から売られたものとの三種類ある、中年以上で此宮術をやるものは少い、大抵小供の時にやられる、そこで此宮術即ち去勢術をやるのは、一の専門的手術家で、これは代々相伝のものに成つて居る、一手術の料が普通六テールで、手術には三人の助手を用ゐ、截断するには一種の秘薬で以て局部を麻痺して置く、手術は極めて単簡粗野、固より今日の医学的眼光から見られたものでない、面白いのは此宦宦達が、皆其截断された一物を洒精づけにして秘蔵してゐる事で、これは死後冥土にゆく時、不具者はその祖先に面会が出来ぬといふ支那人一般の迷信から来たものである、それ故このカタミの宝物は各自非常に鄭重に貯へて居る、ヤケな奴は時に賭博のカタに取られるのもあり、或は意地悪に偸まれて大に閉口する者もある、宦官の外貌は一見してわかる、筋肉の発達がわるくて、其声調は全く女性的で、陰できけば誰れしも女とほか思はぬ、それから二十歳後にやつた者は、毛髪が早くぬけて声もしわがれる、一体に宦官は早く老衰するので、四十歳位に成ると普通人の六十歳位の者にかはらない、十五歳以下の者は小宦官と呼ばれて奴僕の役をつとめ、老宦官は老女官に奉仕し、若いきれいな宦宦は、遊芸なんかを学んで居る、支那の宦宦の話はザツトこんな風だが、東洋には昔から一般に行はれたものと見えて、已に古代希臘にもこの宮術を職業にして居た者が在り、羅馬にも亦多数の宦官が居た、それから耶蘇教徒の帝王時代に成つてから、紀元後三世紀にはヲリゲネス派の徒党は自から此術を行つて、一種の宗教的風習と成つたこともある、土耳古、波斯でも亦此風が行はれたがこれはいづれも奴隷で、支那の如く皇室の独占に属せず、何人でも売買使用することが出来たのである」