自跋
人間至楽の性交、これを肉体生存の糧にせんとする遊女生活、其外観は華美艶冶の境遇に均しきが如しといへども、其内実の悲惨心労は尋常ならず、号して「苦界の勤」といふ
これに思ひ当るは予の一身なり、職業的著述としての辛酸は、少許の阿賭物を投じて予約し、安楽椅子に倚りて繙読する読者諸子の想像以外なるべし、敢て此皮肉を云ふ、著者自ら其無能を告白するものと見ることなくば幸とす
先月二十一日より着手して、十日間に執筆し終らんとの予定なりしが、其予定よりも二倍半の時日を要せり、其間朝は七時に起き夜は十二時に臥し、帝大出勤の外は半日の休養もなく、面会謝絶、雑談禁止、食事と用便の外は、本書編纂の要務に従事せしのみ、遊女の間夫に於けるが如き、ウサハラシの事もなく、焦燥煩悶に苦慮砕心を重ねつゝ、二十余日を費して漸く出来上りしが本書此物なり
顧みて試みに通読すれば、尚加ふべき事、モノ足らぬ所、観祭の不妥当、行文の不洗練、自ら其欠点の多きに忸怩たらざるを得ず
然れども又自ら会心とする条節なきにあらず、そは意気壮快の朝に於て筆を執りしものならんが、頭脳過労、精神朦朧の時日多かりし結果、自己の予想にも反する拙劣の記述を填 充するに至りしを憾みとす
「何もソウ急いで執筆するにも及ぶまいに」と思惟さるゝ読者もあらんが、そこが職業的著述家の悲惨なる境遇なり、今月下旬余義なき要件(祝儀用)にて下阪すべき予約あり、予の第二の古郷たる阪地に行くに、今春頒布の予報を出せし本書が、年末に至るも未発行のまゝにては、阪地の知己に面目なしとの私情にて、是非にとの発奮たりしなり、尚今月二十五日夕副の出発迄に、来る一月一日に発行すべき「明治奇聞」第一号の編纂校正を結了せんとの予定なるが、其一冊編輯の期間は明後日より仮に五日を余すのみ、嗚呼、いつの日か此「苦界の勤」を脱し得べきや
大正十三年十二月十四日午後十時著者記す